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2009年12月05日 (土) | 編集 |

12月5日(土) 晴

妹とサントリーミウジアムで開催中の

  「クリムト、シーレ ウィーン世紀末展」
  http://www.sps.sgn.ne.jp/company/news.html#news139

に行ってきました。

  091205klimt
 
クリムトの名前につられて行ったけど、彼の作品は3点だけだった。(--;


以前、豪華な金ピカの作品を見に行ったことがあったので、
今回も楽しみにしてたんだけど、金ピカはパンフレットに乗っている作品のみ。


ま、「クリムト、シーレ ウィーン世紀末展ってことだし
無料チケットだったし、いっかな。(^^;;


絵画のプチ知識
も少しだけレベルアップしたしね。
     ↓ 
 ・クリムトの生きた時代は、オーストリア・ハンガリー帝国、ハプスブルク帝国の
  最後の時代。
  
 ・クリムトのお父さんは、金銀の線刻師だった。
  あの金ピカ作品は、お父さんの影響もあるのかな~?>勝手に想像。

 ・クリムトには、エゴン・シーレって弟子と
  マッチュっていう、ウィーン工芸美術学校での級友がいた。
  んで、クリムトの2人の弟もィーン工芸美術学校に入学。
  (兄弟そろって、芸術家だったのね)
  
  シーレが美術アカデミーへ進学した年、ヒトラーは入学を拒否された。

  シーレとクリムトは、親子ほど年が離れていたけど、師弟関係を超えた深い親交があった。

 ・弟のエルンストやマッチュと共に芸術家カンパニーを設立するが、
  弟が亡くなって、解散。

 ・級友のマッチュと共に、公共建築(ウィーン大学の天井画の装飾画)を
  一緒に手がけるが、この作品は、とても非難を受け、この仕事を放棄。

 ・ウィーンの伝統的な芸術から離れて、「分離派展」を結成。
 
 ・クリムトは、1918年(第一次世界大戦が終わった年)に、
  脳卒中で半身不随になり、 その三週間後にスペイン風邪で亡くなった。

  下半身不随になったクリムトを看病し、最後を看取ったのは、シーレだけ。
  そして、シーレは、病院の死体安置室で、クリムトの死顔を3枚デッサンした。
  
  同じ年にシーレの奥さん(結婚3年目で妊娠中)もスペイン風邪で亡くなった。
  そして、奥さんが亡くなった3日後に、シーレもスペイン風邪で亡くなった。
    
 ・クリムト:享年55歳。
 ・シーレ :享年28歳。


 革命の激動期・第一次世界大戦・スペイン風邪の流行。

 大変な時代に生きた芸術家たちだったんだなぁ...
  



  091205kaiyu-kan 
  サントリーミウジアムの中から撮った、南港。
  逆行なので、モノクロ風に撮れちゃいました。
  空の光の真ん中にある黒点は、太陽。



結構、絵画展には行くんだけど、シーレやマッチュって名前は、初めて知った。
>似非絵画マニアなのがバレバレ。(^^;;

豪華な金ピカの作品は少なかったけど、今まで見たことのない絵が沢山見られたし、
オーストリア芸術の歴史も少し分かったし、良かったかな~。

オーストリアの絵画って、あまり見たことが無かったように思う。

シーレの絵に関しては、彼の生い立ちなどを知ると、
ちょっと怖いというか、不気味な感じの作品が多いのも、分かるような気がしました。
明るくて華やかな絵は、ないんだよね...>展示品以外では、あるのかな?


んで、クリムトもシーレも、スペイン風邪で亡くなったのか...


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